うみへ日記

日本の古典を硏究してゐます。YouTube「神社のお話」といふチヤンネルもよろしくお願ひします。

口語訳 現代語訳 神道五部書 御鎮座伝記 その五

第十代崇神天皇の御代になつて、やうやく天皇は神威を恐れられる樣になられ、御殿が同じでは不安で居たたまれなくなられた。そこで改めて、齋部(いむべ)氏に、石凝姥神の末裔と天目一箇(あめのまひとつ)の末裔である二氏に、天香山(あめのかぐやま)の白銅、鐵を取らせ、劍と鏡とを鑄造する樣に命令された。

 

それらの劍鏡を玉體(ぎよくたい)を護る御璽とされた。これが卽位の日に獻上される、神の印の鏡と劍とである。内侍(ないし)のことである。一般に御璽といふのは、大己貴神(おほなむちのかみ)と、その御子事代主神(ことしろぬしのかみ)とが大日孁貴に獻上した八坂瓊之曲玉のことである。

 

崇神天皇六年、天照大神と倭大國魂神との二柱の神を天皇の御殿の中で共に祭つてをられたが、その神威を恐れられて、神々と共に住まはれるのが不安になられた。ゆゑに九月に、大和國の笠縫邑(かさぬひむら)に行かれて、磯城(しき)の神籬(ひもろぎ)を特別に立てられて、そこへ天照大神(八咫鏡)と草薙劔(くさなぎのつるぎ)とを遷し申し上げた。そして、皇女豐鋤入姬(とよすきいりひめ)に祀らせた。

口語訳 現代語訳 神道五部書 御鎮座伝記 その四

神武天皇葺不合尊(ふきあへずのみこと)の第四子である。母は玉依姬で、海神の娘である。は、元年十月に、(日向國から)大和國へ向けて出發された。辛酉正月に(大和國の)橿原に都を造られて、御殿を造營された。初代神武天皇より、第九代開化天皇に至るまでの九代は、六百三十餘年あつたが、八咫鏡天皇と同じ御殿に鎭座されてゐて、當時は天皇と神との間合は遠くはなかつた。同じ御殿に坐して、同じ床でお休みになられてをり、それが常であつた。ゆゑに神の物は國家の物であり、兩者に區別はなかつたのである。

口語訳 現代語訳 神道五部書 御鎮座伝記 その三 皇孫

昔、天照大神と天御中主神とは高天原の神々の御意向を受けて、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)天照大神の御子である忍穗耳尊の御子である。母は天御中主神の御子高皇産靈尊の娘である拷幡豐秋津姬命(たくはたとよあきつひめのみこと)である。に、八坂瓊の曲玉、八咫鏡、草薙劍の三種の神器を賜つた。

 

また、大小の神々三十二柱を隨伴させられた。その時に皇孫瓊瓊杵尊に御命令になられた。「葦原千五百秋の彌圖穗國(みづほのくに)は吾が子孫の君主たるべき所である。皇孫瓊瓊杵尊よ、赴いて統治しなさい。ご無事でありなさい。皇統が榮えることが天地と共に永久に榮える樣にしなさい。」

 

時に皇孫瓊瓊杵尊高天原玉座を離れて、空の幾重の雲を押し分けられて、勢ひよく道を押し分け押し分けされて降臨なされた。(吾は)天の八衢(やちまた)にお迎へ申し上げて、ご一緖して、皇孫の行幸される道を開きながら進んだ。そして、筑紫日向高千穗の槵觸(くしふる)の峯に到達した。

 

皇孫と親しき神魯伎(かむろき)天御中主神の御子である高皇産靈神である。神魯美(かむろみ)高皇産靈神の弟の神皇産靈神(かむむすひのかみ)である。の御命令により、皇孫之命(すめみまのみこと)を日向高千穗槵觸の峯に御案内し、天の蔭となり、日蔭となる樣に、巨大で太き宮柱を立て、眞新しく立派な御殿をお建てした。

 

「屋船命(やふねのみこととよむ。御殿の守護神である。)よ木の精靈である久久遲命(くくのちのみこと)、稻の精靈である豐宇加能姬命(とようかのひめのみこと)のことである。高天原の靈妙な稱辭によつて申し上げる。皇孫が高御座(たかみくら。皇位のこと)にをられて、豐葦原瑞穗國(とよあしはらのみづほのくにとよむ。日本のこと)が安らかで穩やかな國となる樣に統治なされて、皇位が永久に續く樣に。」と、高天原の神々のお考へによる皇位の證である、劍と鏡とを捧げ持たれて、瓊瓊杵尊は稱辭を述べられた。天下を治められたのは三十一萬八千五百四十三年であつた。

口語訳 現代語訳 神道五部書 御鎮座伝記 その二 猿田彦の名のり

「押しなべて、天地開闢の事は、偉大な人々が書き記してゐる。だが、ここ伊勢の天照皇太神が五十鈴の川上に御鎭座せられ、社殿を造つた事績は書き著はされることがなかつたので、そのはじめは遙か遠いこととなつてしまひ、御鎭座のことわりは言ひにくい。どうか、諸々集へる者達よ、聞いておくれ。

 

吾(われ)は天下の國土の君主である。ゆゑに國底立神(くにのそこたちのかみ)と申す。吾は臨機應變に神出鬼沒であるから、氣の神とも名乘る。

 

吾はまた、根の國、底の國より來る魑魅魍魎(ちみまうりやう)の處に行つては立ち向かひ、惡靈を退散して守護する神であるから、鬼神(幽冥の守護神 御鎭座傳記抄より)とも名乘る。

 

吾はまた人々のために、長壽や幸福を授けるので大田神(おほたのかみ)ともいふ。吾はよく魂を活きかへらせるので、興玉神(おきたまのかみ)とも申す。

 

どれも皆自然とついた名である。勿論、その名に恥ぢぬ力を備へてをる。吾は言ふべきことをいひ終はつたら、避らうとおもふ。(つづく)

 

解說

倭姬命の頃には、未だ文字が無い。

國底立神は國常立神の別名である。

大田命の所には佛語の福田の意味が含まれてゐる。後の法師が入れたものか。漢語林の福田①仏語。福徳の報いをもたらす基となる善行を、田が物を生ずるのにたとえていう。

 

口語訳 現代語訳 神道五部書 御鎮座伝記 その一

伊勢二所皇大神御鎭座傳記

 

垂仁天皇の皇女である倭姬命(やまとひめのみこと)が伊勢國度會の宇治の五十鈴川上の邊(あた)りに磯宮(いそのみや)を立てていらしやつた時に、狹長田(さなだ)の猨田彥大神(さるたひこのおほかみ)宇遲土公氏人(うぢとこのうぢびと)の御先祖であるが、齋内親王(いつきのみことよむ。倭姬命のことである。)や神主部(かむぬし)天村雲命(あめのむらくものみこと)の子孫の大若子命(おほわかこのみこと)や弟若子命(おとわかこのみこと)たちである、物忌(ものいみ)たち天見通命(あめのみとほしのみこと)の子孫で、宇多大牟禰奈(うたのおほむねな)、大阿禮命(おほあれのみこと)たちであるに以下の樣に敎へ申し上げた。

 

解說

垂仁天皇‥第十一代天皇

倭姬命‥神宮の創始者。

磯宮‥神宮

猨田彥大神‥内宮の場所に元々をられた神

天村雲命、大若子命、弟若子命‥度會氏の先祖

天見通命、宇多大牟禰奈、大阿禮命‥

 

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記その十九 完

天照坐二所皇太神宮御鎭座本紀の記祿は以上の通りである。

 

阿波羅波命(あはらはのみこと)

荒木田押刀(あらきだのおしと)

乃乃古命(ののこのみこと)

赤冠藥(せきくわんのくすり)

乙乃古命(おとのこのみこと)

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記その十八 多賀宮

多賀宮一座

止由氣皇太神の荒御魂(あらみたま)である。伊弉諾尊が筑紫日向小戸橘檍原(つくしのひむかのをどたちばなのあはぎはら)に至られて、禊(みそぎ)された時、左目を洗はれて日の君主を御生みになつた。大日孁貴(おほひるめのむち)であり、地上では天照大神の荒御魂と申す。荒祭宮の神である。

 

また右の目を洗はれたことで、月の君主を御生みになつた。天御中主靈貴(あめのみなかぬしひのむち)である。地上に降臨されて止由氣皇太神の荒御魂と申す。これが多賀宮である。また、伊吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)と申す。御神體は鏡である。この鏡は天鏡尊が造られた三面の鏡のうちの一つである。これは、伊弉諾尊が右手に捧げ持たれて月の神を産まれた時の、眞經津鏡(まふつのかがみ)である。

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記その十七

このやうに、太玉命の御神體の玉の中には、たいへん珍しい寶(たから)もあるのである。それらは天地人にとつての幸ひである。たいへん靈驗(れいけん)あらたかである。

 

また、澤山の黃金の玉や装飾󠄃の玉等もある。これらは、天の岩戸開きの時、太玉命が捧げ持つてゐた玉である。圓形(ゑんけい)の箱は渾沌を表はす形である。ゆゑに萬物(ばんぶつ)の根源をしまつてゐることを表はす。

 

また、玉串内人(たまぐしうちんどとよむ。神宮で太玉串等を管理する神職である。)が奉仕する眞賢木五百͡箇御統玉(まさかきのいほつみすまるのたま)と申すのも、この緣である。

 

解說

このあたりは漢文がひどく亂れて譯しにくい。太玉命の御神體は澤山の曲玉が束になつたもので、その玉の中には、たいへん貴重なものもあるといふのである。みすまるの玉とは、澤山の玉が束になつたもので、古代祭祀にはよく用ゐられた。

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記その十六 相殿その二

外宮正宮の中の右には、二座の神が鎭座する。まづ天兒屋命(あめのこやねのみこと)である。御神體は笏(しやく)であり、牙(きば)の形をしてゐる。また、丸い玉が一つ、榊(さかき)が二枝ある。

 

天の岩戸開きの時、天兒屋命が祝詞を奏上し、祈禱(きたう)したときに用ゐられた笏と榊とである。

 

次に太玉命(ふとだまのみこと)である。御神體は瑞八坂瓊之曲玉(みづのやさかにのまがたま)である。圓形(ゑんけい)の箱にお納めしてゐる。この曲玉は天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)がお生まれになつた玉である。またこれは、天の岩戸開きのときに、榊に澤山(たくさん)つるした曲玉でもある。(つづく)

 

解說

 天兒屋命は中臣氏の先祖であり、太玉命忌部氏の先祖である。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨の時に地上に來られ、長く朝廷の神事を司る家系であつた。天照大神が天の磐屋(いはや)にこもられた時、天兒屋命は祝詞を唱へ、太玉命依代(よりしろ)の榊を用意された。天兒屋命の御神體はその時登場する品々である。

 

太玉命の方は、まだ說明は途中であるが、御神體は八坂瓊の曲玉である。

 

天忍穗耳尊とは、天照大神の御子で、天孫瓊瓊杵尊の御父である。この神は、天照大神と素戔嗚尊との占ひの時に生まれた神である。素戔嗚尊高天原に來られた時に、天照大神が素戔嗚尊高天原侵掠を疑はれ、素戔嗚尊はそれを否定してもめられた時に、占ひで決めることとされた。

 

天照大神は素戔嗚尊の劍をかみ碎かれて、息を吐いて三柱の女神を産まれた。一方、素戔嗚尊は天照大神の持たれてゐた曲玉をかみ碎かれて、息を吹き五人の男神を産まれた。結果、素戔嗚尊が正しかつたといふことが證明されたさうである。

 

天照大神の所持されてゐた八坂瓊の曲玉を素戔嗚尊がかみ碎かれて吹いた息から御誕生された五柱のうちの一柱が天忍穗耳尊である。そのかみ碎かれた曲玉は、天の岩戸の時には榊に掛けられた。それが、この太玉命の御神體である。

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記 その十五 相殿 その一

相殿(外宮の正宮に豐受大神と共に坐(ましま)す神)三座

 

左に一座。皇御孫尊(すめみまのみこととよむ。天照大神の孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)のことである。)。御神體は金の鏡である。二面あつて、大きい方は西にあり、小さい方は東にある。西を上位とする。同じ御船代(みふなしろとよむ。樋代を入れる器のこと。)の中に安置する。この二面の鏡は神代より傳はる靈妙な物である。二面で一柱の神である。

 

この神は道主貴(みちぬしのむち)が奉齋する神であつた。大物忌内人(おほものいみのうちんどとよむ。神宮で日別朝夕大御饌(ひごとあさゆふのおほみけ)に奉仕する最も重要な神職。)が奉仕するのは、その緣である。

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記 その十四 外宮の御神体

天地開闢(てんちかいびやく)の後、萬物(ばんぶつ)はそなはつてゐても、渾沌(こんとん)の前にはその闇を照らすものはなかつた。故に、萬物が生成していくはたらきは、あるやうであり、じつは無いに等しかつた。時代が下れば下るほど、自然と世界は賤(いや)しくなつて行つた。

 

そんな時に、國常立尊(くにのとこたちのみこと)の生みなさつた神が、高天原の神々の御意向を受けて、三面の眞經津(まふつ)の鏡を鋳造された。故にその神の名を天鏡尊(あめのかがみのみこと)と申すのである。

 

この時に神道は明らかに現れて、空には天文が現れ、地上の地理もそなはつたのである。

 

その三面の鏡のうち、最も優れた鏡が外宮の御神體である。圓形(ゑんけい)である。黃金の樋代(ひしろとよむ。器のことである。)にお納めしてゐる。

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記 その十三 外宮の創始

第二十一代雄略天皇の二十一年十月一日に、倭姬命は夢のお告げを受けられた。夢の中で天照大神は、「吾は天の小宮(わかみや)にゐた時の樣に、(豐受大神と)同じところにゐないので、神饌(しんせん)も安心して食べることが出來ない。丹波國与佐之小見比沼之魚井原(よさのをみひぬのまなゐはら)にをられる道主貴(みちぬしのむち)が祭つてゐる御饌都神(みけつかみとよむ。食の神である。)の止由居(氣)皇太神を、吾のゐる國(伊勢)に連れてきてほしい。」と敎へられた。

 

そこで、大若子命(おほわくごのみこと)は使ひを遣はして朝廷に申し上げられて、お宮を建て、翌年七月七日に大佐佐命(おほささのみこと)に丹波國余佐郡魚井原より豐受大神を度會の山田原にお迎へさせて、お祭りした。御神體は鏡である。

 

解說

道主貴(みちぬしのむち)は第九代開化天皇の皇子の日子坐王(ひこますのおほきみ)の御子の丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)と考へられる。

 

崇神天皇の御代の四道將軍の一人である。四道將軍とは、大和の國をよく治められた崇神天皇が、日本中を統治するために四方に送つた使ひである。丹波道主命は娘の日葉酢媛(ひはすひめ)を第十一代垂仁天皇の御代に入内させた。垂仁天皇と日葉酢媛との間に生まれた御子が倭姬命であり、第十二代景行天皇である。つまり丹波道主命は倭姬命の外祖父に當たる方であり、皇室とも强いつながりがある。

 

倭姬命や丹波道主命は、時代的に第二十一代雄略天皇の御代にをられるはずがない。おそらく道主貴は丹波道主命の子孫であり、ここの倭姬命といふのは當時の齋王(さいわうとよむ。神宮の最高神主である。)のことであらう。

 

開化天皇ー日子坐王ー丹波道主命ー日葉酢媛ー倭姬命

 

倭姬命の祖父の子孫が豐受大神をお祭りしてゐたとしたら、倭姬命と豐受大神との間に深い關係があつたことになる。

 

大若子命(おほわくごのみこと)は度會氏の先祖である。大佐佐命(おほささのみこと)は大若子命の子孫である。

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記 その十二

第十代崇神天皇の三十九年に、天照皇太神は但波(たんば 丹波と同じ。)の吉佐宮(よさのみや)に遷(うつ)られ、そこで年月を經られた。この時に、止由氣之皇神(とゆけのすめがみ 豐受大神と同じ。)が天降られて、天照大神と豐受大神とはご協力されて、かつて高天原の天小宮(あめのわかみや)での立派なならはしそのままに、一箇所に二神がをられた。

 

解說

日本書紀では、第十代崇神天皇六年に、天皇八咫鏡(やたのかがみ)を大和(奈良縣)の笠縫邑(かさぬひむら)に遷された。その後、第十一代垂仁(すいにん)天皇二十五年まで笠縫邑に鎭座されてゐたことになつてゐるが、この書では崇神天皇三十九年に丹後國(京都府)の吉佐(よさ)に遷(うつ)られたとある。

 

そこに豐受大神が降臨されて、二神は今の伊勢神宮の樣に、近い場所に御鎭座されてゐたといふ。また、二神は高天原でも同じ樣に、共に天小宮(あめのわかみや)に居られたさうである。

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記 その十一 豊受大神の続き

古い言ひ傳へによると、(天地のはじめに)大海原の中に一つのものが浮かび上がり、この形は葦(あし 今は「よし」といふ。)の芽の形の樣であつた。その中に神が成り出でられた。天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と申す。別名國常立尊(くにのとこたちのみこと)といひ、また大元神(おほもとのかみ)とも申す。

 

故に(その神の成り出でられたところを)豐葦原中國(とよあしはらのなかつくに)といふ。

 

またそれ故にその神の御名を天照止由氣皇太神(あまてらすとゆけのすめおほみかみ)といふのである。

 

大日孁貴天照大神(おほひるめのむちあまてらすおほみかみ)と豫め、世には明かされてゐない大切なお約束をされ、長く高天原と地上とを統治された。

 

解說

この物語は先回と異なり、日本獨自の要素が多い。葦(あし)の芽の樣なものがはじめに成り出でるのは、古事記日本書紀と同じである。葦の芽は、先が銳く尖つてゐて、空をつんざく樣な形をしてゐる。この葦の芽から天御中主神が成り出でられ、その場所が豐葦原中國つまり日本だといふ。また、葦の樣なイネ科の植物が澤山ある所の神であるから豐受大神であるといふ。

 

大殿祭といふ古代の朝廷の祭があつて、天皇の住まふ御殿が安泰(あんたい)で、災ひが無い樣にと御殿の守り神に祈ることがその祭の趣旨である。屋船久久遲命(やふねくくのちのみこと)と屋船豐宇氣姬命(やふねとようけびめのみこと)といふ神が御殿の守り神である。屋船久久遲命は御殿の材木の神で、屋船豐宇氣姬命は屋根や繩などを作るためのイネ科の植物の神である。だから、葦原中國の神は豐受大神といふのである。

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記 その十 豊受大神

天照坐止由氣皇太神(あまてらしますとゆけのすめおほみかみ)一座度會(わたらひ)郡山田原(やまだがはら)に御鎭座する。

 

神宮に傳はる古文書によると、昔、水の德がまだ現れてをらず、天地がまだ出來てゐなかつた時、瑞八坂瓊之曲玉(みづのやさかにのまがたま)を九宮貴神壇(きうきうきしんだん)にささげると、水が變化して天地となつた。天地が起つて人間も生まれた。

 

この水德の名を天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と申す。故に幾度となく變化する水の德を受け、命を續ける術(食糧を生産すること)をも生んだ。だから別名を御饌都神(みけつかみ 食の神といふ意味である。)とも申すのである。

 

解說

九宮といふ言葉が原文に現れてゐるが、これは道敎の九宮貴神のことである。九宮貴神とは、太一(たいいち 北極星である。)、攝提(せつてい 北斗七星のうち柄の方の三星)、軒轅(けんえん 黃帝)、招搖(せうえう)、天符(てんぷ)、青龍(せいりう)、咸池(かんち)、太陰(たいいん)、天一(てんいつ)のことである。

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この九宮の話も後の時代に紛れ込んだ部分であることに相違なく、天地が出來てをらず、人もゐないのに誰が九宮貴神壇に曲玉を捧げたのかといふことになる。明かな矛盾である。

 

ここで大切なことは、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が水の德(惠み)の神であるといふことである。これも陰陽五行說の影響があると考へられるが、豐受大神が水の德を持つといふことの眞僞はわからない。

 

尚書(しやうしよ)に洪範九疇(こうはんきうちう)といふ漢國の法が載つてをり、その九つのうちの第一が五行である。

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五行。一曰。水。二曰。火。三曰。木。四曰。金。五曰。土。(第一は五行。一に水、二に火、三に木、四に金、五に土である。)

 

日本書紀古事記も、この五部書もさうであるが、宇宙の原始を記す時は漢籍からの引用が多い。

 

また、この書では豐受大神を天御中主神と同一神としてゐるが、これは伊勢神道に特殊の考へであり、外宮の神主家の度會(わたらひ)氏が外宮の地位を上げようとして捏造したと考へられてゐる。復古神道や今日の神道では完全に否定されてゐる。