口語訳 神道五部書 御鎮座次第記 その十三 外宮の創始

第二十一代雄略天皇の二十一年十月一日に、倭姬命は夢のお告げを受けられた。夢の中で天照大神は、「吾は天の小宮(わかみや)にゐた時の樣に、(豐受大神と)同じところにゐないので、神饌(しんせん)も安心して食べることが出來ない。丹波國与佐之小見比沼之魚井原(よさのをみひぬのまなゐはら)にをられる道主貴(みちぬしのむち)が祭つてゐる御饌都神(みけつかみとよむ。食の神である。)の止由居(氣)皇太神を、吾のゐる國(伊勢)に連れてきてほしい。」と敎へられた。

 

そこで、大若子命(おほわくごのみこと)は使ひを遣はして朝廷に申し上げられて、お宮を建て、翌年七月七日に大佐佐命(おほささのみこと)に丹波國余佐郡魚井原より豐受大神を度會の山田原にお迎へさせて、お祭りした。御神體は鏡である。

 

解說

道主貴(みちぬしのむち)は第九代開化天皇の皇子の日子坐王(ひこますのおほきみ)の御子の丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)と考へられる。

 

崇神天皇の御代の四道將軍の一人である。四道將軍とは、大和の國をよく治められた崇神天皇が、日本中を統治するために四方に送つた使ひである。丹波道主命は娘の日葉酢媛(ひはすひめ)を第十一代垂仁天皇の御代に入内させた。垂仁天皇と日葉酢媛との間に生まれた御子が倭姬命であり、第十二代景行天皇である。つまり丹波道主命は倭姬命の外祖父に當たる方であり、皇室とも强いつながりがある。

 

倭姬命や丹波道主命は、時代的に第二十一代雄略天皇の御代にをられるはずがない。おそらく道主貴は丹波道主命の子孫であり、ここの倭姬命といふのは當時の齋王(さいわうとよむ。神宮の最高神主である。)のことであらう。

 

開化天皇ー日子坐王ー丹波道主命ー日葉酢媛ー倭姬命

 

倭姬命の祖父の子孫が豐受大神をお祭りしてゐたとしたら、倭姬命と豐受大神との間に深い關係があつたことになる。

 

大若子命(おほわくごのみこと)は度會氏の先祖である。大佐佐命(おほささのみこと)は大若子命の子孫である。