口語訳 神道五部書 御鎭座次苐記 其の五
天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、天照大日孁貴の御子である天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)の御子である。瓊瓊杵尊の母は萬幡豐秋津姫命(よろづはたとよあきつひめのみこと)である。つまり天照大日孁貴と止由氣皇太神(別名は天御中主神)とは天孫の御先祖である。故に高皇産靈神は皇親神とされる。親といふのは先祖の事をいふ。であるから、二柱の始祖神の御名を取つて皇御孫命(すめみまのみこと)と申すのである。槪して、德が天地に合ふ者を皇とし、智が神靈に合ふ者を命とする。大とは自由自在に變化適應する道である。神とは申のことである。天の磐門(いはと、高天原と現實世界との境)を開かれて、雲の道をひらき、神々が先ばらひをしながら、空に幾重にも重なる雲を搔き分け搔き分けされながら、筑紫(九州)の日向の高千穗の槵觸峯(くしふるたけ)に天降りなされた。
解說
この段は、有名な天孫降臨を描いてゐるが、八咫鏡が高天原から地上に降臨された由緖を說くことが、主な目的である。割註(わりちう 小さな字のところ)は、特に後半の文意が不明瞭である。
口語譯神道五部書 御鎭座次苐記 其の四
また、眞經津鏡(まふつかがみ)ともいふ。
天照太神が天岩窟(あめのいはや)に入られ、磐戸(いはと)を閉ぢられておかくれになつた。天地四方が眞暗闇(まつくらやみ)となり、晝(ひる)と夜との區別が無くなつてしまつて、何事をするにも松明を燃やさねばならなくなつた。
八百萬の神々は、愁へ困惑されて、どうしたものかと深くお考へになられた。天御中主(あめのみなかぬし)と高貴高皇神(たかきたかみかみ=高皇産靈神)とは以下の樣に御下命になられた。
「石凝姥神(いしこりどめのかみ)に天香山(あめのかぐやま)の銅を取り、日の形をかたどつた鏡を鑄造させよ。」
その鏡はとても美しく、今伊勢神宮(内宮)で祭つてゐる御神體がこの鏡である。
口語譯神道五部書 御鎭座次苐記 其の三
日の神が天位に即かれた時(又は、天の岩戸を出られた時)、天照大日孁貴は止由氣(とゆけ)皇大神と豫め、世には明かされてゐない大切なお約束をされ、長く天下を統治されて以降、
高天原に留まられてゐる神々の御命令により、八百萬の神々を天の高市といふ處に集められ、
「大葦原千五百秋瑞穗國(地上)は、吾が子孫が君たるべき所である。安らかに且つ穩やかである樣に、吾が皇御孫尊(瓊瓊杵(ににぎ)尊)よ、統治しなさい。」と御委任申し上げなさり、八坂瓊(やさかに)の曲玉、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙劔(くさなぎのつるぎ)の三種の神器を皇孫に授けなさつた。
「これ等の神器を長く天子の位の證としなさい。此の寶鏡(八咫鏡)を見る時は、吾をみる樣に心得て振舞なさい。」と仰せられた。
口語譯 天照坐伊勢二所󠄃皇太神宮御鎭座次苐記 其の一 大日孁貴の御誕生
天照坐皇太神一座 伊勢國度會郡宇治鄕五十鈴河上に鎭座する
神宮に古より傳はる書物によると、伊弉諾尊が「我は地上を統治する優れた子を産まうとおもふ。」とおつしやられた。そこで左手に銅鏡*1をお持ちになつた。天鏡命の造られた三面の寶鏡の一つである。
すると、お生まれになつた神がをられ、この神は大日孁貴(おほひるめのむち)と申し、別名天照大日孁貴と申し上げた。このお子樣は光り輝いてをられ、天地四方を照りとほされた。天地開闢の後、神は足で地をふんで行かれた。御身體の光は神の周りだけを照らし、神が遠ざかると光は消えて行くので、天地は眞暗であつた。そこで、人々を助けるために、日月が空に現れた。名づけて日神、月神とした。
神道辭典
ゆき・すき 悠紀・主基 践祚大嘗祭に定められてゐる二つの祭祀のそれぞれの一方の系列に關する名稱で、ユキ・スキといふ。云々。悠紀の語源的意味は、古くから湯にて清まはる云々、主基は次、濯ぎ淸む、淸忌の御膳、齋城の助、日嗣の嗣などの意であるとしてゐるが、みな祭祀上の意義から連想的に解してゐるだけで、どれが正しい意味であるかよく分からない。ユキのキは上代特殊假名遣表の乙類の假字で書かれ、スキのキはその甲類の假字で書かれてゐる。從つてユキ・スキは同一のキの意味を含むユのキ、スのキの意ではない。現在ではユキについては齋城とする以外に適當な語源的意味を見出し難い。スキについては(一)スの酒、(二)次、(三)灌ぎの三種の意味が考へられるが、(二)(三)は語尾變化のキであるから、(一)の意に解することが出來る。然しユキとの關聯を満足させ得ないと思はれるので、全體的には不明といふ外はないやうである。[文獻]田中初夫「悠紀主基名義考」 (田中初)
神祇辭典には
鈴屋の大人の濯ぎ淸めるの説と鈴木重胤先生の悠紀の次なる説とを兩論併記してゐたり。しかも鈴屋の大人の説を第一に持つて來てゐたり。いづれが定説ともいひがたくなりぬ。
神道辭典の田中初夫氏の意見はよりつばらかなり。田中氏は主基の語源について『悠紀主基名義考』てふ論文を書かれてゐたり。次回神道辭典を示さむ。
玉賀都萬一の卷の悠紀主基
本居宣長全集第一卷に載る玉賀都萬一の卷 悠紀主基[五]にいふやう、
大嘗の悠紀主基の主基の事、書紀の私記に、師說ニ、齋忌ニ次グナリ、といへるより、今に至るまで、人皆此意とのみ心得ためれど、ひがこと也、かの説は、天武紀に齋忌此ヲ踰既ト云、次此ヲ須岐ト云、とあるによれるなれども、齋忌こそ此字の意なれ、次は借字にして、此字の意にはあらず、古へはすべて言だに同じければ、字は、意にはかかはらず、借りて書るに、次を須岐ともいへるから、言の同じきままに、借りて書ならヘるを、そのままに書れたる物也、次の意にあらずといふゆゑは、悠紀と主基とは、何事も二方全く同じさまにして、一事もいささかのおとりまさりあることなければ、次といふべきよしさらになし、天武紀なるは、借り字なること、疑ひなき物をや、主基は、禊の曾岐と同言にして、濯といふことなり、みそきも身濯にて、そそくとすすくと同じきを、共につづめて、曾岐とも須岐ともいへる也、さればこれも、齋忌と同じさまの名にして、濯き淸めたるよしなるぞかし、