うみへ日記

日本の古典を硏究してゐます。YouTube「神社のお話」といふチヤンネルもよろしくお願ひします。

口語訳 現代語訳 神道五部書 御鎮座伝記 その十六

また御命令になられた。神主や物忌(ものいみ)の職にある人たちは、諸々の祭の物忌の時は、諸々の穢れに觸れてはならないし、見てはならないし、聞いてはならない。弔問をしてはならない。弔辭を述べてはならない。佛法の言葉を忌み、動物の肉を食べてはならない。神甞祭の日までは新米を食べてはならない。身を淸め、愼み、心ををさめ、つつしんでお祭りせよ。また、神衣の神部も同樣にせよ。

口語訳 現代語訳 神道五部書 御鎮座伝記 その十五

高貴神(たかぎのかみ 高御産靈尊)が託宣されて、大土祖衢神(おほつちみおやちまたのかみ)等に告げさせられた。「天照太神は火の氣を掌る神で、本來の光を柔らげられ、地上の不淨な塵に身を置かれながらも、萬民の願望を充足される。止由氣太神は水の氣を掌られて、萬物を長く養はれる。故に兩宮は八百萬の神々の根源であられ、君臣上下の元祖である。天下の大廟であり、國家の社稷(土地の神、五穀の神)である。故に兩宮を尊敬するに當たつては、禮儀に關する敎へを第一としなければならない。故に天皇は自ら耕し、神明に供へて、皇后は自ら養蠶して、祭服を供へられる。さうして、一年に樣々な祭をし、君德は神の御心と合ひ、天地とも合ふのである。君德が天地と合ふ時は、君としてふみ行なふべき道は明らかであり、人々は豐かになる。大神の前にたてまつる物は、麻布、絹布、赤曳きの絲、靑海󠄃原のひれの廣い魚、狹い魚、沖の海󠄃藻、海󠄃邊の海󠄃藻、山野のものは、甘い野菜、辛い野菜で、御神酒は甕にいつぱいに入れて澤山竝べて、天皇の御治世をとても長く、堅固で永遠に續く樣にお守りくださり、生き生きとした御代になる樣に祝福くださいと壽詞を唱へよと御命令になられた。

口語訳 現代語訳 神道五部書 御鎮座伝記 その十四

倭姬命と大田命とは、幣帛を澤山積んで、朝廷の御位が長久で岩の樣に堅固なものにとお祈りし、生き生きとした御代でご多幸であれと、高天原の神慮による靈威な詞で、諸々の穢れを忌詞(いみことば)と定められて、大神主大佐々命(おほささのみこと)や物忌荒󠄃木田酒女(さかめ)押刀(おしと 酒女の子)等に敎へた、とおつしやられた。物忌(ものいみ)の名はかうして起つた。

 

 神代からの靈物の裝ひを猨田彦神がつつしんで申し上げませう。抑々天地開闢の後、萬物が全て具はつたといつても、渾沌の前にはその闇を照らすものはなかつた。よつて、萬物の化成はある樣であり、無きに等しかつた。さうして時が經てば經つほど、自然と尊嚴は失はれ、下卑ていつた。その時に、國常立尊がお生みになられた神が、高天原の神慮を受けて、地中の上等な白銅を撰び集めて、地の神、水の神、火の神、風の神々の協力をうけて、三才(天地人)相應の三面の眞經津鏡(まふつのかがみ)を鑄造された。故にこの鏡を鑄造した神を天鏡命(あめのかがみのみこと)と申し上げる。その時神明の道は出現し、天文も地理もはつきりと現出した。

 

また、劍大刀子小刀子は地中の洗練された金屬から龍神がお造りになられた。弓矢天照太神の相殿の神である。は轉輪王(てんりんわう)の造られたものである。陰陽を表はす。故に天之香子弓(あめのかこゆみ)、地之羽々矢(つちのははや)と名づけられた。玉は日の神、月の神の光の麗しさを表はす。笏は天の四德(元亨利貞)と地の五行(水火木金土)とを表はす。自然の德を表はしてゐる。神物は皆この樣に靈妙である。これらを私に臧する事の出來る者はゐないのである。

口語訳 現代語訳 神道五部書 御鎮座伝記 その十三

相殿神三座左は天津彥々火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)。大八洲(おほやしま)の主である。右は天古兒屋命と太玉命とである。各々天神地祇の中で、特に皇孫に忠義を盡される神である。

 

多賀宮一座止由氣皇神(とゆけのすめがみ)の荒御魂である。伊弉諾尊が筑紫(九州)の日向の小戸橘之檍原(をどたちばなのあはぎはら)に到達されて、禊をされた時に、左の目を洗はれて日の神が誕生された。これが大日孁貴である。地上に降られてからは天照太神の荒御魂、荒祭神と申し上げる。また右目を洗はれて月の神が誕生された。地上に降臨されて御名を止由氣大神の荒御魂、多賀宮と申し上げる。また、鼻を洗はれたことでお生まれになつた神の御名は、速佐須良比賣神(はやさすらひめのかみ)と申し上げる。土藏の神である。素戔嗚尊と協力されてをられる。多賀宮は伊吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)である。祓戸の神である。天照太神の第一の攝神である。神の御さとしにより止由氣宮の傍に坐す。

 

山田原地主大土御祖神二座大年神の子大國魂神(おほくにたまのかみ)の子である宇賀之御魂神(うかのみたまのかみ)一座。素戔嗚尊の子土之御祖神(つちのみおやのかみ)一座。また衢神(ちまたのかみ)大田命。寶石の御神體が一つ坐す。これは神の財である。

 

調御倉神(みつきのみくらのかみ)宇加能美多麻神(うかのみたまのかみ)である。この神は伊弉諾伊弉册尊の御生みになられた神である。別名を大宜都比賣神(おほげつひめのかみ)と申し上げ、また保食神(うけもちのかみ)とも申し上げる。神祇官八神殿の御膳神(みけつかみ)である。また神服機殿(かむはたおりどの)でお祭りする三狐神(みけつかみ)が御同座されてゐる。故にまたの御名を專女神(たうめのかみ)と申し上げる。齋王を專女と申し上げるのは、かういふいはれである。また稻の靈宇賀能美多麻神(うかのみたまのかみ)である。

西北の方に尊んで祭る。御神體がある。それぞれ一座。

 

酒殿いはゆる伊弉諾伊弉册尊がお生みになられた和久産巢日神(わくむすひのかみ)の子豐宇賀能賣神(とようかのめのかみ)である。別名は姮娥(こうが)と申す。また羿女(げいじよ)とも申す。月より天下られた。能く酒を釀(かも)されて、一杯飮めば萬病を除くと云はれてゐる。その一杯の値は千金である。財寶を車に積んできて交換したものだ。今神の酒といはれる。幣帛使は齋宮の三節祭の時の宴會の夜に酒立女(さかたちめ)に下賜するのはかういふ所以である。また、丹波國與謝郡比沼山(ひぬやま)の頂上に井戸があり、その名を麻那井(まなゐ)といふ。ここに神がをられる。竹野郡の奈具社である。故に豐宇賀能賣神は御神體が靈石である。また、酒を造るための𤭖(みか)が一つある。大神の靈妙な器である。よつて敬ひ祭つてゐる。古くは吉祥を𤭖の腹甘露酒で滿たす、といつた。名づけて神酒といふ。三節祭(六月十二月の月次祭、神甞祭)に獻上する。

 

以上、止由氣太神、別宮等、諸社、四至之神(みやのめぐりのかみ)等、皇大神宮に準じてお祭りしてゐる。故に日の神は東南に坐し、月の神は西北に坐す。およそ兩宮は日月を表はし、伊勢の諸社は星々を表はしてゐる。

口語訳 現代語訳 神道五部書 御鎮座伝記 その十一

崇神天皇三十九年壬戌に、天照大神を但波の與佐宮に遷座された。止由氣皇神が天下られて、輝きを合はせられ、德を等しくされる樣は、天之小宮(あまのわかみや)のやうで、一箇所に竝び御鎭座されてゐた。時に、和久産巢日神の子豐受姬命穀靈神である。御神酒を供へられた。今丹後國竹野郡奈具(なぐ)社に鎭座される豐宇賀能賣神(とようかのめのかみ)である。またこの神は元は天女で、后羿(こうげい)の妻姮娥(こうが)である。いはゆる月の紫微宮より天降つた天女である。また丹波道主貴(たにはのみつぬしのむち)素戔嗚尊の子孫粟御子神(あはみこのかみ)である。は、朝夕の大御饌を供へて奉仕した。その功を終へられて、止由氣太神は高天原に戻られた。この場所で、白銅の寶鏡を道主貴八小男童(やをとめ)天日別命が奉齋した。

口語訳 現代語訳 神道五部書 御鎮座伝記 その十二の続き

の要である。神明の德である。故に龍神土神各一座が守護神となつてゐる。太いのを立て、高天原に千木をそばだたせて、鎭まり定まりなさると稱辭を盡してお祭りした。

 

また神寶の是非をよく見定めて、兵器の吉凶を占ひ定めて、御幣物とした。さらに神地神戸を定めて、二所皇大神宮の日ごとの朝夕の大御饌を奉つた。天神(あまつかみ)の敎への通りに、土師(はじ)の物忌造(ものいみつくり)が平瓫(ひらか)を擔當し、丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)が物忌の職に奉仕して、御飯を炊いて供へた。

 

皇太神が重ねて託宣された。我に仕へ奉る時は、まづ止由氣太神宮を祭らねばならぬ。その後に我が宮の祭に奉仕せよ。故に諸々の祭は止由氣宮を先とするのである。

口語訳 現代語訳 神道五部書 御鎮座伝記 その十二

雄略天皇二十一年十月一日、倭姬命に夢のお告げがあつておつしやられるには、

 

「天照大神が、我は天の小宮(わかみや)での樣に居たいのに、地上では我一柱のみである。神饌(しんせん)も安心して食べることが出來ない。丹波國與佐之小見比沼之魚井之原に鎭座する道主(みちぬし)の子の八乎止女(やをとめ)が祭つてゐる食物神の止由氣皇太神を我の鎭座する所へつれて來て欲しい、と御諭(おさと)しなされた。」

 

この時、大若子命(おほわくごのみこと)を朝廷に派遣して、夢の樣を報告させられた。天皇は詔されて、「大若子命よ、行きて、豐受大神を奉齋せよ。」とおつしやられた。

 

故に手置帆負(ておきほをひ)と彥狹知(ひこさち)と二柱の神の子孫を率󠄃ゐて、忌斧、忌鉏(いみすき)等を以て山で木を伐り始め、寶殿を建てて、翌年の七月七日、大佐々命(おほささのみこと)弟若子命の子爾佐布命の子彥和志理命の子阿波良波命の子である。丹波國餘佐郡眞井原より止由氣皇太神をお迎へ申し上げた。度遇(わたらひ)の山田原の地下の岩盤五十鈴の宮地の樣に大田命が敷き申し上げたのである。に大宮柱忌柱といふ。また天御量柱、心御柱ともいふ。これは皇帝の命であり、國家

口語訳 現代語訳 神道五部書 御鎮座伝記 その十

豐受皇太神一座。

 

天地開闢の初めに、高天原に神が御出現なされた。ある本によると、伊弉諾尊大自在天伊弉册尊と申す。古くは伊舎那天伊舎那天妃と申す。二神は先づ大八洲(おほやしま)を御生みになつた。次に海の神水天童子難陀竜王を生み、次に河の神を生み、次に風の神風天童子を生まれた。それ以降一萬年以上經つたが、水德が御出現されず、地上は飢餓に苦しんだ。そこで二柱の神は、高天原の御考へを受けて、瑞八坂瓊之曲玉を天に捧げた。その時に成り出でた神がをられた。名づけて止由氣(とゆけ)皇太神と申し上げた。樣々に變化されて、水の德を受けられて、命を續ける術を生み出された。故に御名を御饌都神(みけつかみ)と申すのである。

 

古い傳へでは、大海の中に一つの物が有つた。水の中に浮かんでゐるその形は葦の芽󠄄の樣であつた。その中に神がお生まれになつた。天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と申し上げた。故にその神の生まれられ、統治される所を豐葦原中國(とよあしはらのなかつくに)と申すのである。またさういふ譯で、止由氣皇神(とゆけのすめがみ)と名乘られた。

 

さういふ譯で、天地開闢の初め、天照大神が天位におつきになられた時、御饌都神の天御中主尊と大日孁貴であられる天照太神とは、豫め、我々の知り得ない秘密のお約束をされて、長く天下を治められて、或いは日となられ、月となられて、長く空に坐して、落ちてくることもなかつたのである。或いは神と成られ、皇祖となられて、永遠に滅びることがないのである。盛德はいよいよ光輝を放ち、天地四方を照り輝かせられるのである。

口語訳 現代語訳 神道五部書 御鎮座伝記 その九

攝神(せつしん)

荒祭宮一座皇太神の荒御魂である。伊弉諾尊が筑紫の日向の小戸橘の檍原(あはぎはら)に到つて、禊(みそぎ)された時、左目を洗はれたことで、日の君主がお生まれになつた。大日孁貴(おほひるめのむち)である。御名を、天下られて後は天照太御神の荒魂、荒祭神(あらまつりのかみ)と申す。いはゆる祓戸神(はらへどのかみ)の瀨織津姬神(せおりつひめのかみ)である。

 

瀧原宮一座皇太神の遙宮(とほみや)である。伊弉諾伊弉册尊がお産みになられた河の神である。名を水戸神(みなとのかみ)といふ。またの名を速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)と申す。

 

伊雜宮(いざはのみや)一座皇太神の遙宮(とほみや)である。天日別命の御娘である玉柱屋姬命(たまはしらやひめのみこと)である。神託によつてお祭りしたのである。

 

以上が天照太神宮(内宮)に屬する中でも、第一級の諸神社である。

口語訳 現代語訳 神道五部書 御鎮座伝記 その八

天照座皇太神(あまてらしますすめおほみかみ)一座また大日孁貴とも申す。

 

相殿神二座左天兒屋命の御魂。後座である(意味不明)。太玉命の御魂。

 

御戸開前神二座天手力男神の御魂。前社である(意味不明)。右萬幡豐秋津姬命の御魂。

 

御門神(みかどのかみ)二座豐石窗神(とよいはまどのかみ)。櫛石窗神(くしいはまどのかみ)。

 

御倉神(みくらのかみ)三座素戔嗚尊の御子である宇賀之御魂神(うかのみたまのかみ)である。またの御名を專女(たうめ)といふ、三狐神(みけつかみ)ともいふ。

 

酒殿神一座御神體は器に坐す。

 

宮中四至神(みやのめぐりのかみ)四十四前夜叉神大將である。御神體は石である。

 

口語訳 現代語訳 神道五部書 御鎮座伝記 その七

倭姬命はおつしやられた。「その道理は明白です。それは遙か昔、この天地の始祖天照皇太神と天御中主神である。と神魯伎命と神魯美命が誓宣(うけひ)をされて、地上の國の内に、伊勢の加佐波夜(かさはや)の國は素晴らしい宮所があると、見定められて、高天原より投下されてゐた天の逆大刀(さかたち)、天の逆鉾(さかほこ)、大小の黃金の鈴五十個に違ひありません。日之小宮(ひのわかみや)の神秘的な圖形文樣をもつ寶物であります。」と云はれて、拍手されて大變お喜びになられた。その場所に日小宮(ひのわかみや)を遷し造られた。地底の岩盤大田命が淸淨で麗しい岩石で地底の岩盤を敷き申し上げたのである。に太い大宮柱(おほみやばしら)一名を忌柱といふ。また、天御量(あめのみはかり)柱、心御柱ともいふ。天皇にとつては命であり、國家を強固にするものである。龍神と土神とが各一柱坐して、守護神となつてゐる。を立て、高天原に千木をそばだたせて、垂仁天皇二十六年十月甲子に天照大神を宇遲(うぢ)の五十鈴の河上に遷し申し上げて、御鎭座された。

口語訳 現代語訳 神道五部書 御鎮座伝記 その六

第十一代垂仁天皇二十五年三月に、(皇大神宮の御神體は)伊勢國飯野高宮より伊蘇宮に遷りになつた。その時に倭姬命がおつしやられた。「伊勢國の南の山中を見られて、宮地として良い場所を探し求められた。」

 

この年、猿田彥大神が參り來て、祝福して敎へ申し上げた。

 

「南の大きな峯に良い宮所があります。さこくしろ(枕詞か)宇遲(うぢ)の五十鈴川の川上は、日本の内でも目出度い靈場であります。わしの世に現れてより二百八萬餘年の昔からまだ見たことのない靈妙な物がございます。照り輝く樣は、まるでお日樣の樣でございまして、これは竝みの物ではございませんよ。定まつた主が御出現遊ばしていらつしやると思ひました。」

口語訳 現代語訳 神道五部書 御鎮座伝記 その五

第十代崇神天皇の御代になつて、やうやく天皇は神威を恐れられる樣になられ、御殿が同じでは不安で居たたまれなくなられた。そこで改めて、齋部(いむべ)氏に、石凝姥神の末裔と天目一箇(あめのまひとつ)の末裔である二氏に、天香山(あめのかぐやま)の白銅、鐵を取らせ、劍と鏡とを鑄造する樣に命令された。

 

それらの劍鏡を玉體(ぎよくたい)を護る御璽とされた。これが卽位の日に獻上される、神の印の鏡と劍とである。内侍(ないし)のことである。一般に御璽といふのは、大己貴神(おほなむちのかみ)と、その御子事代主神(ことしろぬしのかみ)とが大日孁貴に獻上した八坂瓊之曲玉のことである。

 

崇神天皇六年、天照大神と倭大國魂神との二柱の神を天皇の御殿の中で共に祭つてをられたが、その神威を恐れられて、神々と共に住まはれるのが不安になられた。ゆゑに九月に、大和國の笠縫邑(かさぬひむら)に行かれて、磯城(しき)の神籬(ひもろぎ)を特別に立てられて、そこへ天照大神(八咫鏡)と草薙劔(くさなぎのつるぎ)とを遷し申し上げた。そして、皇女豐鋤入姬(とよすきいりひめ)に祀らせた。

口語訳 現代語訳 神道五部書 御鎮座伝記 その四

神武天皇葺不合尊(ふきあへずのみこと)の第四子である。母は玉依姬で、海神の娘である。は、元年十月に、(日向國から)大和國へ向けて出發された。辛酉正月に(大和國の)橿原に都を造られて、御殿を造營された。初代神武天皇より、第九代開化天皇に至るまでの九代は、六百三十餘年あつたが、八咫鏡天皇と同じ御殿に鎭座されてゐて、當時は天皇と神との間合は遠くはなかつた。同じ御殿に坐して、同じ床でお休みになられてをり、それが常であつた。ゆゑに神の物は國家の物であり、兩者に區別はなかつたのである。

口語訳 現代語訳 神道五部書 御鎮座伝記 その三 皇孫

昔、天照大神と天御中主神とは高天原の神々の御意向を受けて、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)天照大神の御子である忍穗耳尊の御子である。母は天御中主神の御子高皇産靈尊の娘である拷幡豐秋津姬命(たくはたとよあきつひめのみこと)である。に、八坂瓊の曲玉、八咫鏡、草薙劍の三種の神器を賜つた。

 

また、大小の神々三十二柱を隨伴させられた。その時に皇孫瓊瓊杵尊に御命令になられた。「葦原千五百秋の彌圖穗國(みづほのくに)は吾が子孫の君主たるべき所である。皇孫瓊瓊杵尊よ、赴いて統治しなさい。ご無事でありなさい。皇統が榮えることが天地と共に永久に榮える樣にしなさい。」

 

時に皇孫瓊瓊杵尊高天原玉座を離れて、空の幾重の雲を押し分けられて、勢ひよく道を押し分け押し分けされて降臨なされた。(吾は)天の八衢(やちまた)にお迎へ申し上げて、ご一緖して、皇孫の行幸される道を開きながら進んだ。そして、筑紫日向高千穗の槵觸(くしふる)の峯に到達した。

 

皇孫と親しき神魯伎(かむろき)天御中主神の御子である高皇産靈神である。神魯美(かむろみ)高皇産靈神の弟の神皇産靈神(かむむすひのかみ)である。の御命令により、皇孫之命(すめみまのみこと)を日向高千穗槵觸の峯に御案内し、天の蔭となり、日蔭となる樣に、巨大で太き宮柱を立て、眞新しく立派な御殿をお建てした。

 

「屋船命(やふねのみこととよむ。御殿の守護神である。)よ木の精靈である久久遲命(くくのちのみこと)、稻の精靈である豐宇加能姬命(とようかのひめのみこと)のことである。高天原の靈妙な稱辭によつて申し上げる。皇孫が高御座(たかみくら。皇位のこと)にをられて、豐葦原瑞穗國(とよあしはらのみづほのくにとよむ。日本のこと)が安らかで穩やかな國となる樣に統治なされて、皇位が永久に續く樣に。」と、高天原の神々のお考へによる皇位の證である、劍と鏡とを捧げ持たれて、瓊瓊杵尊は稱辭を述べられた。天下を治められたのは三十一萬八千五百四十三年であつた。