うみへ日記

日本の古典を硏究してゐます。YouTube「神社のお話」といふチヤンネルもよろしくお願ひします。

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記その十八 多賀宮

多賀宮一座

止由氣皇太神の荒御魂(あらみたま)である。伊弉諾尊が筑紫日向小戸橘檍原(つくしのひむかのをどたちばなのあはぎはら)に至られて、禊(みそぎ)された時、左目を洗はれて日の君主を御生みになつた。大日孁貴(おほひるめのむち)であり、地上では天照大神の荒御魂と申す。荒祭宮の神である。

 

また右の目を洗はれたことで、月の君主を御生みになつた。天御中主靈貴(あめのみなかぬしひのむち)である。地上に降臨されて止由氣皇太神の荒御魂と申す。これが多賀宮である。また、伊吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)と申す。御神體は鏡である。この鏡は天鏡尊が造られた三面の鏡のうちの一つである。これは、伊弉諾尊が右手に捧げ持たれて月の神を産まれた時の、眞經津鏡(まふつのかがみ)である。

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記その十七

このやうに、太玉命の御神體の玉の中には、たいへん珍しい寶(たから)もあるのである。それらは天地人にとつての幸ひである。たいへん靈驗(れいけん)あらたかである。

 

また、澤山の黃金の玉や装飾󠄃の玉等もある。これらは、天の岩戸開きの時、太玉命が捧げ持つてゐた玉である。圓形(ゑんけい)の箱は渾沌を表はす形である。ゆゑに萬物(ばんぶつ)の根源をしまつてゐることを表はす。

 

また、玉串内人(たまぐしうちんどとよむ。神宮で太玉串等を管理する神職である。)が奉仕する眞賢木五百͡箇御統玉(まさかきのいほつみすまるのたま)と申すのも、この緣である。

 

解說

このあたりは漢文がひどく亂れて譯しにくい。太玉命の御神體は澤山の曲玉が束になつたもので、その玉の中には、たいへん貴重なものもあるといふのである。みすまるの玉とは、澤山の玉が束になつたもので、古代祭祀にはよく用ゐられた。

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記その十六 相殿その二

外宮正宮の中の右には、二座の神が鎭座する。まづ天兒屋命(あめのこやねのみこと)である。御神體は笏(しやく)であり、牙(きば)の形をしてゐる。また、丸い玉が一つ、榊(さかき)が二枝ある。

 

天の岩戸開きの時、天兒屋命が祝詞を奏上し、祈禱(きたう)したときに用ゐられた笏と榊とである。

 

次に太玉命(ふとだまのみこと)である。御神體は瑞八坂瓊之曲玉(みづのやさかにのまがたま)である。圓形(ゑんけい)の箱にお納めしてゐる。この曲玉は天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)がお生まれになつた玉である。またこれは、天の岩戸開きのときに、榊に澤山(たくさん)つるした曲玉でもある。(つづく)

 

解說

 天兒屋命は中臣氏の先祖であり、太玉命忌部氏の先祖である。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨の時に地上に來られ、長く朝廷の神事を司る家系であつた。天照大神が天の磐屋(いはや)にこもられた時、天兒屋命は祝詞を唱へ、太玉命依代(よりしろ)の榊を用意された。天兒屋命の御神體はその時登場する品々である。

 

太玉命の方は、まだ說明は途中であるが、御神體は八坂瓊の曲玉である。

 

天忍穗耳尊とは、天照大神の御子で、天孫瓊瓊杵尊の御父である。この神は、天照大神と素戔嗚尊との占ひの時に生まれた神である。素戔嗚尊高天原に來られた時に、天照大神が素戔嗚尊高天原侵掠を疑はれ、素戔嗚尊はそれを否定してもめられた時に、占ひで決めることとされた。

 

天照大神は素戔嗚尊の劍をかみ碎かれて、息を吐いて三柱の女神を産まれた。一方、素戔嗚尊は天照大神の持たれてゐた曲玉をかみ碎かれて、息を吹き五人の男神を産まれた。結果、素戔嗚尊が正しかつたといふことが證明されたさうである。

 

天照大神の所持されてゐた八坂瓊の曲玉を素戔嗚尊がかみ碎かれて吹いた息から御誕生された五柱のうちの一柱が天忍穗耳尊である。そのかみ碎かれた曲玉は、天の岩戸の時には榊に掛けられた。それが、この太玉命の御神體である。

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記 その十五 相殿 その一

相殿(外宮の正宮に豐受大神と共に坐(ましま)す神)三座

 

左に一座。皇御孫尊(すめみまのみこととよむ。天照大神の孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)のことである。)。御神體は金の鏡である。二面あつて、大きい方は西にあり、小さい方は東にある。西を上位とする。同じ御船代(みふなしろとよむ。樋代を入れる器のこと。)の中に安置する。この二面の鏡は神代より傳はる靈妙な物である。二面で一柱の神である。

 

この神は道主貴(みちぬしのむち)が奉齋する神であつた。大物忌内人(おほものいみのうちんどとよむ。神宮で日別朝夕大御饌(ひごとあさゆふのおほみけ)に奉仕する最も重要な神職。)が奉仕するのは、その緣である。

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記 その十四 外宮の御神体

天地開闢(てんちかいびやく)の後、萬物(ばんぶつ)はそなはつてゐても、渾沌(こんとん)の前にはその闇を照らすものはなかつた。故に、萬物が生成していくはたらきは、あるやうであり、じつは無いに等しかつた。時代が下れば下るほど、自然と世界は賤(いや)しくなつて行つた。

 

そんな時に、國常立尊(くにのとこたちのみこと)の生みなさつた神が、高天原の神々の御意向を受けて、三面の眞經津(まふつ)の鏡を鋳造された。故にその神の名を天鏡尊(あめのかがみのみこと)と申すのである。

 

この時に神道は明らかに現れて、空には天文が現れ、地上の地理もそなはつたのである。

 

その三面の鏡のうち、最も優れた鏡が外宮の御神體である。圓形(ゑんけい)である。黃金の樋代(ひしろとよむ。器のことである。)にお納めしてゐる。

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記 その十三 外宮の創始

第二十一代雄略天皇の二十一年十月一日に、倭姬命は夢のお告げを受けられた。夢の中で天照大神は、「吾は天の小宮(わかみや)にゐた時の樣に、(豐受大神と)同じところにゐないので、神饌(しんせん)も安心して食べることが出來ない。丹波國与佐之小見比沼之魚井原(よさのをみひぬのまなゐはら)にをられる道主貴(みちぬしのむち)が祭つてゐる御饌都神(みけつかみとよむ。食の神である。)の止由居(氣)皇太神を、吾のゐる國(伊勢)に連れてきてほしい。」と敎へられた。

 

そこで、大若子命(おほわくごのみこと)は使ひを遣はして朝廷に申し上げられて、お宮を建て、翌年七月七日に大佐佐命(おほささのみこと)に丹波國余佐郡魚井原より豐受大神を度會の山田原にお迎へさせて、お祭りした。御神體は鏡である。

 

解說

道主貴(みちぬしのむち)は第九代開化天皇の皇子の日子坐王(ひこますのおほきみ)の御子の丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)と考へられる。

 

崇神天皇の御代の四道將軍の一人である。四道將軍とは、大和の國をよく治められた崇神天皇が、日本中を統治するために四方に送つた使ひである。丹波道主命は娘の日葉酢媛(ひはすひめ)を第十一代垂仁天皇の御代に入内させた。垂仁天皇と日葉酢媛との間に生まれた御子が倭姬命であり、第十二代景行天皇である。つまり丹波道主命は倭姬命の外祖父に當たる方であり、皇室とも强いつながりがある。

 

倭姬命や丹波道主命は、時代的に第二十一代雄略天皇の御代にをられるはずがない。おそらく道主貴は丹波道主命の子孫であり、ここの倭姬命といふのは當時の齋王(さいわうとよむ。神宮の最高神主である。)のことであらう。

 

開化天皇ー日子坐王ー丹波道主命ー日葉酢媛ー倭姬命

 

倭姬命の祖父の子孫が豐受大神をお祭りしてゐたとしたら、倭姬命と豐受大神との間に深い關係があつたことになる。

 

大若子命(おほわくごのみこと)は度會氏の先祖である。大佐佐命(おほささのみこと)は大若子命の子孫である。

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記 その十二

第十代崇神天皇の三十九年に、天照皇太神は但波(たんば 丹波と同じ。)の吉佐宮(よさのみや)に遷(うつ)られ、そこで年月を經られた。この時に、止由氣之皇神(とゆけのすめがみ 豐受大神と同じ。)が天降られて、天照大神と豐受大神とはご協力されて、かつて高天原の天小宮(あめのわかみや)での立派なならはしそのままに、一箇所に二神がをられた。

 

解說

日本書紀では、第十代崇神天皇六年に、天皇八咫鏡(やたのかがみ)を大和(奈良縣)の笠縫邑(かさぬひむら)に遷された。その後、第十一代垂仁(すいにん)天皇二十五年まで笠縫邑に鎭座されてゐたことになつてゐるが、この書では崇神天皇三十九年に丹後國(京都府)の吉佐(よさ)に遷(うつ)られたとある。

 

そこに豐受大神が降臨されて、二神は今の伊勢神宮の樣に、近い場所に御鎭座されてゐたといふ。また、二神は高天原でも同じ樣に、共に天小宮(あめのわかみや)に居られたさうである。

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記 その十一 豊受大神の続き

古い言ひ傳へによると、(天地のはじめに)大海原の中に一つのものが浮かび上がり、この形は葦(あし 今は「よし」といふ。)の芽の形の樣であつた。その中に神が成り出でられた。天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と申す。別名國常立尊(くにのとこたちのみこと)といひ、また大元神(おほもとのかみ)とも申す。

 

故に(その神の成り出でられたところを)豐葦原中國(とよあしはらのなかつくに)といふ。

 

またそれ故にその神の御名を天照止由氣皇太神(あまてらすとゆけのすめおほみかみ)といふのである。

 

大日孁貴天照大神(おほひるめのむちあまてらすおほみかみ)と豫め、世には明かされてゐない大切なお約束をされ、長く高天原と地上とを統治された。

 

解說

この物語は先回と異なり、日本獨自の要素が多い。葦(あし)の芽の樣なものがはじめに成り出でるのは、古事記日本書紀と同じである。葦の芽は、先が銳く尖つてゐて、空をつんざく樣な形をしてゐる。この葦の芽から天御中主神が成り出でられ、その場所が豐葦原中國つまり日本だといふ。また、葦の樣なイネ科の植物が澤山ある所の神であるから豐受大神であるといふ。

 

大殿祭といふ古代の朝廷の祭があつて、天皇の住まふ御殿が安泰(あんたい)で、災ひが無い樣にと御殿の守り神に祈ることがその祭の趣旨である。屋船久久遲命(やふねくくのちのみこと)と屋船豐宇氣姬命(やふねとようけびめのみこと)といふ神が御殿の守り神である。屋船久久遲命は御殿の材木の神で、屋船豐宇氣姬命は屋根や繩などを作るためのイネ科の植物の神である。だから、葦原中國の神は豐受大神といふのである。

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記 その十 豊受大神

天照坐止由氣皇太神(あまてらしますとゆけのすめおほみかみ)一座度會(わたらひ)郡山田原(やまだがはら)に御鎭座する。

 

神宮に傳はる古文書によると、昔、水の德がまだ現れてをらず、天地がまだ出來てゐなかつた時、瑞八坂瓊之曲玉(みづのやさかにのまがたま)を九宮貴神壇(きうきうきしんだん)にささげると、水が變化して天地となつた。天地が起つて人間も生まれた。

 

この水德の名を天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と申す。故に幾度となく變化する水の德を受け、命を續ける術(食糧を生産すること)をも生んだ。だから別名を御饌都神(みけつかみ 食の神といふ意味である。)とも申すのである。

 

解說

九宮といふ言葉が原文に現れてゐるが、これは道敎の九宮貴神のことである。九宮貴神とは、太一(たいいち 北極星である。)、攝提(せつてい 北斗七星のうち柄の方の三星)、軒轅(けんえん 黃帝)、招搖(せうえう)、天符(てんぷ)、青龍(せいりう)、咸池(かんち)、太陰(たいいん)、天一(てんいつ)のことである。

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この九宮の話も後の時代に紛れ込んだ部分であることに相違なく、天地が出來てをらず、人もゐないのに誰が九宮貴神壇に曲玉を捧げたのかといふことになる。明かな矛盾である。

 

ここで大切なことは、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が水の德(惠み)の神であるといふことである。これも陰陽五行說の影響があると考へられるが、豐受大神が水の德を持つといふことの眞僞はわからない。

 

尚書(しやうしよ)に洪範九疇(こうはんきうちう)といふ漢國の法が載つてをり、その九つのうちの第一が五行である。

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五行。一曰。水。二曰。火。三曰。木。四曰。金。五曰。土。(第一は五行。一に水、二に火、三に木、四に金、五に土である。)

 

日本書紀古事記も、この五部書もさうであるが、宇宙の原始を記す時は漢籍からの引用が多い。

 

また、この書では豐受大神を天御中主神と同一神としてゐるが、これは伊勢神道に特殊の考へであり、外宮の神主家の度會(わたらひ)氏が外宮の地位を上げようとして捏造したと考へられてゐる。復古神道や今日の神道では完全に否定されてゐる。

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記 其の九 荒祭宮

荒祭宮(あらまつりのみや)一座(一柱)天照大日孁貴の荒御魂(あらみたま)である。御神體は鏡である。

 

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、左目を洗はれて生まれられた神を天照荒魂(あまてらすあらみたま)、別名を瀨織津比咩神(せおりつひめのかみ)と申す。

 

神宮に傳(つた)はる古の文書によると、かつて天鏡尊(あめのかがみのみこと)は月の宮殿にをられた。そこで鑄造された三面の寶鏡のうち、二面は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉册尊(いざなみのみこと)とが神々から受け繼がれて持つてをられてゐた。

 

伊弉諾伊弉册神が、)神賀吉詞(かむよごと)を唱へられて、日の神、月の神を産みなさつた時、(兩手に持たれてゐた)眞經津鏡(まふつかがみ)のうち、日の神が産まれられたのは左手の一面からであつた。

 

この事により、その眞經津鏡が荒祭宮の御神體となつたのである。

 

解說

荒御魂(あらみたま)とは、神の動的な力のはたらきであり、反對に靜的なはたらきを和御魂(にぎみたま)といふ。兩者は同一の神より發生するので、根本は同じである。にもかかはらず、この書では兩者は別々に誕生されてをり、天照大神は鏡から、荒御魂は伊弉諾尊の禊(みそぎ)の最中に、左目から生まれられた。(右目からは豐受大神の荒御魂が生まれられた。)

 

ちなみに、伊弉諾尊の禊(みそぎ)は、黃泉(よみ)の國から戾られ、體についた黃泉のけがれを淸めようといふことで行はれた。場所は小戸橘之檍原(をどたちばなのあはぎはら)といふところであつた。九州のどこかであることは間違ひないが、場所は特定されてゐない。

 

瀨織津姫(せおりつひめ)といふ神は、神社で行はれる大祓(おほはらへ)といふ行事でよまれる祝詞(のりと)の中に登場される四柱の神々のうちの一柱である。急流の川瀨にをられて、穢(けが)れを川から海へと押し流す神である。

 

天鏡尊が鑄造された眞經津鏡三面のうち、一面は外宮(豐受大神)の御神體、一面はこの荒祭宮の御神體、もう一面は多賀宮(豐受大神の荒御魂)の御神體である。この荒祭宮の鏡は天鏡尊→天萬尊(あめのよろづのみこと)→沫蕩尊(あはなぎのみこと)→伊弉諾伊弉册→荒祭宮と繼承された(御鎭座次第記抄)。

口語訳 神道五部書 御鎭座次第記 其の八 相殿神

相殿神(あひどののかみ 天照大神と共に内宮の正宮にをられる神)二座(柱)

 

左は天手力男命(あめのたぢからをのみこと)である。元々この神は天磐戸(あめのいはと)を開かれた神である。御神體(ごしんたい)の形は弓である。この御神體は神代に輪王(りんわう 又は轉輪王)が造つた。

 

右は萬幡豐秋津姬命(よろづはたとよあきつひめ)である。御神體の形は劍である。この御神體は神代に龍神(りうじん)が造られた。

 

この姬神は止由氣皇太神(外宮の神)の御子である高皇産靈神の娘である。また、天照皇太神(内宮の神)の御子である天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)の妃であり、天孫の母である。

 

故に天照皇太神と止由氣皇太神との二柱(ふたはしら)の大御神は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の御先祖の神と申すのである。故に伊勢の内外兩宮を敬ふことが、禮儀に關する敎への中で最も優先すべきことである。

 

解說

轉輪王(てんりんわう)や龍神は佛敎の神々で、明らかに後の神佛習合の影響がある。

 

轉輪王

インド神話で、正義によって世界を治める理想的帝王。仏教では三十二相・七宝を具備するとされ、天から感得した輪宝(りんぼう)を転がして四州を治める。輪宝の種類により、鉄輪王・銅輪王・銀輪ごんりん王・金輪王の四輪王がいる。転輪聖王。輪王。(大辞林 第三版

 

また、止由氣皇太神が高皇産靈神の祖といふのも、伊勢神道に獨自の考へである。

口語訳神道五部書 御鎭座次苐記 其の七

第十一代垂仁天皇(すいにんてんわう)二十五年三月、八咫鏡伊勢國の飯野高宮(いひののたかみや)から伊蘇宮(いそのみや)遷られた。倭姬󠄃命(やまとひめのみこと)がお祭りしてをられた。その後、天照大神の敎へに從ひ、(五十鈴川上の)地底の岩盤の上に大きな柱を立てて、殿社を造り、二十六年十月に度遇(わたらひ)の宇治五十鈴川上の新しい社殿にお遷しいたし、御鎭座になられた。

 

解說

第十代崇神天皇(すじんてんわう)の御代に、天皇八咫鏡を笠縫邑(かさぬひむら)に遷され、御子の第十一代垂仁天皇の御代に、天皇は皇女の倭姬󠄃命に八咫鏡を委ねて、良い宮所を探させられた。倭姬󠄃命は樣々な所を調べられて、結局最もふさわしい宮所として伊勢の度會郡五十鈴川上を見つけられた。これが今の伊勢神宮の内宮である。

 

高天原→(天孫降臨)→日向→(神武東征)→大和→(倭姬巡幸)→伊勢といふことで、つひに八咫鏡は現在の神宮に御鎭座された。ちなみに、草薙劍(くさなぎのつるぎ)もここまでは八咫鏡と同行されてゐたが、後に倭健命(やまとたけるのみこと)の手に渡り、今は熱田神宮に御鎭座する。

 

口語譯神道五部書 御鎭座次苐記 其の六 神武東征

神武天皇(じんむてんわう)元年十月、天皇は日向より、大和國(今の奈良縣)に向けて出發なされた。

 

解說

これは神武東征といつて、今の宮崎縣にをられた初代天皇の神武天皇が大和國(今の奈良縣)へと出征せられ、見事に平定せられて、大和に都を遷された時の話である。出征の年を神武天皇元年とするのは日本書紀と異なり、日本書紀では橿原宮で即位された辛酉の年を元年とする。神武出征は神武天皇即位の七年前のことである。

 

また、この話も八咫鏡が、神武東征と共に日向から大和へ遷つたことを記すことが目的で書かれてゐる。高天原→(天孫降臨)→日向→(神武東征)→大和といふ流れである。

口語訳 神道五部書 御鎭座次苐記 其の五

天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、天照大日孁貴の御子である天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)の御子である。瓊瓊杵尊の母は萬幡豐秋津姫命(よろづはたとよあきつひめのみこと)である。つまり天照大日孁貴と止由氣皇太神(別名は天御中主神)とは天孫の御先祖である。故に高皇産靈神は皇親神とされる。親といふのは先祖の事をいふ。であるから、二柱の始祖神の御名を取つて皇御孫命(すめみまのみこと)と申すのである。槪して、德が天地に合ふ者を皇とし、智が神靈に合ふ者を命とする。大とは自由自在に變化適應する道である。神とは申のことである。天の磐門(いはと、高天原と現實世界との境)を開かれて、雲の道をひらき、神々が先ばらひをしながら、空に幾重にも重なる雲を搔き分け搔き分けされながら、筑紫(九州)の日向の高千穗の槵觸峯(くしふるたけ)に天降りなされた。

 

解說

この段は、有名な天孫降臨を描いてゐるが、八咫鏡高天原から地上に降臨された由緖を說くことが、主な目的である。割註(わりちう 小さな字のところ)は、特に後半の文意が不明瞭である。