うみへ日記

日本の古典を硏究してゐます。YouTube「神社のお話」といふチヤンネルもよろしくお願ひします。

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記 その十 豊受大神

天照坐止由氣皇太神(あまてらしますとゆけのすめおほみかみ)一座度會(わたらひ)郡山田原(やまだがはら)に御鎭座する。

 

神宮に傳はる古文書によると、昔、水の德がまだ現れてをらず、天地がまだ出來てゐなかつた時、瑞八坂瓊之曲玉(みづのやさかにのまがたま)を九宮貴神壇(きうきうきしんだん)にささげると、水が變化して天地となつた。天地が起つて人間も生まれた。

 

この水德の名を天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と申す。故に幾度となく變化する水の德を受け、命を續ける術(食糧を生産すること)をも生んだ。だから別名を御饌都神(みけつかみ 食の神といふ意味である。)とも申すのである。

 

解說

九宮といふ言葉が原文に現れてゐるが、これは道敎の九宮貴神のことである。九宮貴神とは、太一(たいいち 北極星である。)、攝提(せつてい 北斗七星のうち柄の方の三星)、軒轅(けんえん 黃帝)、招搖(せうえう)、天符(てんぷ)、青龍(せいりう)、咸池(かんち)、太陰(たいいん)、天一(てんいつ)のことである。

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この九宮の話も後の時代に紛れ込んだ部分であることに相違なく、天地が出來てをらず、人もゐないのに誰が九宮貴神壇に曲玉を捧げたのかといふことになる。明かな矛盾である。

 

ここで大切なことは、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が水の德(惠み)の神であるといふことである。これも陰陽五行說の影響があると考へられるが、豐受大神が水の德を持つといふことの眞僞はわからない。

 

尚書(しやうしよ)に洪範九疇(こうはんきうちう)といふ漢國の法が載つてをり、その九つのうちの第一が五行である。

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五行。一曰。水。二曰。火。三曰。木。四曰。金。五曰。土。(第一は五行。一に水、二に火、三に木、四に金、五に土である。)

 

日本書紀古事記も、この五部書もさうであるが、宇宙の原始を記す時は漢籍からの引用が多い。

 

また、この書では豐受大神を天御中主神と同一神としてゐるが、これは伊勢神道に特殊の考へであり、外宮の神主家の度會(わたらひ)氏が外宮の地位を上げようとして捏造したと考へられてゐる。復古神道や今日の神道では完全に否定されてゐる。

口語訳 神道五部書 御鎮座次第記 其の九 荒祭宮

荒祭宮(あらまつりのみや)一座(一柱)天照大日孁貴の荒御魂(あらみたま)である。御神體は鏡である。

 

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、左目を洗はれて生まれられた神を天照荒魂(あまてらすあらみたま)、別名を瀨織津比咩神(せおりつひめのかみ)と申す。

 

神宮に傳(つた)はる古の文書によると、かつて天鏡尊(あめのかがみのみこと)は月の宮殿にをられた。そこで鑄造された三面の寶鏡のうち、二面は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉册尊(いざなみのみこと)とが神々から受け繼がれて持つてをられてゐた。

 

伊弉諾伊弉册神が、)神賀吉詞(かむよごと)を唱へられて、日の神、月の神を産みなさつた時、(兩手に持たれてゐた)眞經津鏡(まふつかがみ)のうち、日の神が産まれられたのは左手の一面からであつた。

 

この事により、その眞經津鏡が荒祭宮の御神體となつたのである。

 

解說

荒御魂(あらみたま)とは、神の動的な力のはたらきであり、反對に靜的なはたらきを和御魂(にぎみたま)といふ。兩者は同一の神より發生するので、根本は同じである。にもかかはらず、この書では兩者は別々に誕生されてをり、天照大神は鏡から、荒御魂は伊弉諾尊の禊(みそぎ)の最中に、左目から生まれられた。(右目からは豐受大神の荒御魂が生まれられた。)

 

ちなみに、伊弉諾尊の禊(みそぎ)は、黃泉(よみ)の國から戾られ、體についた黃泉のけがれを淸めようといふことで行はれた。場所は小戸橘之檍原(をどたちばなのあはぎはら)といふところであつた。九州のどこかであることは間違ひないが、場所は特定されてゐない。

 

瀨織津姫(せおりつひめ)といふ神は、神社で行はれる大祓(おほはらへ)といふ行事でよまれる祝詞(のりと)の中に登場される四柱の神々のうちの一柱である。急流の川瀨にをられて、穢(けが)れを川から海へと押し流す神である。

 

天鏡尊が鑄造された眞經津鏡三面のうち、一面は外宮(豐受大神)の御神體、一面はこの荒祭宮の御神體、もう一面は多賀宮(豐受大神の荒御魂)の御神體である。この荒祭宮の鏡は天鏡尊→天萬尊(あめのよろづのみこと)→沫蕩尊(あはなぎのみこと)→伊弉諾伊弉册→荒祭宮と繼承された(御鎭座次第記抄)。

口語訳 神道五部書 御鎭座次第記 其の八 相殿神

相殿神(あひどののかみ 天照大神と共に内宮の正宮にをられる神)二座(柱)

 

左は天手力男命(あめのたぢからをのみこと)である。元々この神は天磐戸(あめのいはと)を開かれた神である。御神體(ごしんたい)の形は弓である。この御神體は神代に輪王(りんわう 又は轉輪王)が造つた。

 

右は萬幡豐秋津姬命(よろづはたとよあきつひめ)である。御神體の形は劍である。この御神體は神代に龍神(りうじん)が造られた。

 

この姬神は止由氣皇太神(外宮の神)の御子である高皇産靈神の娘である。また、天照皇太神(内宮の神)の御子である天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)の妃であり、天孫の母である。

 

故に天照皇太神と止由氣皇太神との二柱(ふたはしら)の大御神は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の御先祖の神と申すのである。故に伊勢の内外兩宮を敬ふことが、禮儀に關する敎への中で最も優先すべきことである。

 

解說

轉輪王(てんりんわう)や龍神は佛敎の神々で、明らかに後の神佛習合の影響がある。

 

轉輪王

インド神話で、正義によって世界を治める理想的帝王。仏教では三十二相・七宝を具備するとされ、天から感得した輪宝(りんぼう)を転がして四州を治める。輪宝の種類により、鉄輪王・銅輪王・銀輪ごんりん王・金輪王の四輪王がいる。転輪聖王。輪王。(大辞林 第三版

 

また、止由氣皇太神が高皇産靈神の祖といふのも、伊勢神道に獨自の考へである。

口語訳神道五部書 御鎭座次苐記 其の七

第十一代垂仁天皇(すいにんてんわう)二十五年三月、八咫鏡伊勢國の飯野高宮(いひののたかみや)から伊蘇宮(いそのみや)遷られた。倭姬󠄃命(やまとひめのみこと)がお祭りしてをられた。その後、天照大神の敎へに從ひ、(五十鈴川上の)地底の岩盤の上に大きな柱を立てて、殿社を造り、二十六年十月に度遇(わたらひ)の宇治五十鈴川上の新しい社殿にお遷しいたし、御鎭座になられた。

 

解說

第十代崇神天皇(すじんてんわう)の御代に、天皇八咫鏡を笠縫邑(かさぬひむら)に遷され、御子の第十一代垂仁天皇の御代に、天皇は皇女の倭姬󠄃命に八咫鏡を委ねて、良い宮所を探させられた。倭姬󠄃命は樣々な所を調べられて、結局最もふさわしい宮所として伊勢の度會郡五十鈴川上を見つけられた。これが今の伊勢神宮の内宮である。

 

高天原→(天孫降臨)→日向→(神武東征)→大和→(倭姬巡幸)→伊勢といふことで、つひに八咫鏡は現在の神宮に御鎭座された。ちなみに、草薙劍(くさなぎのつるぎ)もここまでは八咫鏡と同行されてゐたが、後に倭健命(やまとたけるのみこと)の手に渡り、今は熱田神宮に御鎭座する。

 

口語譯神道五部書 御鎭座次苐記 其の六 神武東征

神武天皇(じんむてんわう)元年十月、天皇は日向より、大和國(今の奈良縣)に向けて出發なされた。

 

解說

これは神武東征といつて、今の宮崎縣にをられた初代天皇の神武天皇が大和國(今の奈良縣)へと出征せられ、見事に平定せられて、大和に都を遷された時の話である。出征の年を神武天皇元年とするのは日本書紀と異なり、日本書紀では橿原宮で即位された辛酉の年を元年とする。神武出征は神武天皇即位の七年前のことである。

 

また、この話も八咫鏡が、神武東征と共に日向から大和へ遷つたことを記すことが目的で書かれてゐる。高天原→(天孫降臨)→日向→(神武東征)→大和といふ流れである。

口語訳 神道五部書 御鎭座次苐記 其の五

天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、天照大日孁貴の御子である天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)の御子である。瓊瓊杵尊の母は萬幡豐秋津姫命(よろづはたとよあきつひめのみこと)である。つまり天照大日孁貴と止由氣皇太神(別名は天御中主神)とは天孫の御先祖である。故に高皇産靈神は皇親神とされる。親といふのは先祖の事をいふ。であるから、二柱の始祖神の御名を取つて皇御孫命(すめみまのみこと)と申すのである。槪して、德が天地に合ふ者を皇とし、智が神靈に合ふ者を命とする。大とは自由自在に變化適應する道である。神とは申のことである。天の磐門(いはと、高天原と現實世界との境)を開かれて、雲の道をひらき、神々が先ばらひをしながら、空に幾重にも重なる雲を搔き分け搔き分けされながら、筑紫(九州)の日向の高千穗の槵觸峯(くしふるたけ)に天降りなされた。

 

解說

この段は、有名な天孫降臨を描いてゐるが、八咫鏡高天原から地上に降臨された由緖を說くことが、主な目的である。割註(わりちう 小さな字のところ)は、特に後半の文意が不明瞭である。

口語譯神道五部書 御鎭座次苐記 其の四

また、眞經津鏡(まふつかがみ)ともいふ。

 

天照太神が天岩窟(あめのいはや)に入られ、磐戸(いはと)を閉ぢられておかくれになつた。天地四方が眞暗闇(まつくらやみ)となり、晝(ひる)と夜との區別が無くなつてしまつて、何事をするにも松明を燃やさねばならなくなつた。

 

八百萬の神々は、愁へ困惑されて、どうしたものかと深くお考へになられた。天御中主(あめのみなかぬし)と高貴高皇神(たかきたかみかみ=高皇産靈神)とは以下の樣に御下命になられた。

「石凝姥神(いしこりどめのかみ)に天香山(あめのかぐやま)の銅を取り、日の形をかたどつた鏡を鑄造させよ。」

 

その鏡はとても美しく、今伊勢神宮(内宮)で祭つてゐる御神體がこの鏡である。

口語譯神道五部書 御鎭座次苐記 其の三

日の神が天位に即かれた時(又は、天の岩戸を出られた時)、天照大日孁貴は止由氣(とゆけ)皇大神と豫め、世には明かされてゐない大切なお約束をされ、長く天下を統治されて以降、

 

高天原に留まられてゐる神々の御命令により、八百萬の神々を天の高市といふ處に集められ、

 

「大葦原千五百秋瑞穗國(地上)は、吾が子孫が君たるべき所である。安らかに且つ穩やかである樣に、吾が皇御孫尊(瓊瓊杵(ににぎ)尊)よ、統治しなさい。」と御委任申し上げなさり、八坂瓊(やさかに)の曲玉、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙劔(くさなぎのつるぎ)の三種の神器を皇孫に授けなさつた。

 

「これ等の神器を長く天子の位の證としなさい。此の寶鏡(八咫鏡)を見る時は、吾をみる樣に心得て振舞なさい。」と仰せられた。

神道辭典の主基の解說について

日本書紀天武天皇五年九月丙戌(二十一日)の記事に以下の如くある。

 

丙戌。神官奏爲新甞卜國郡也。齋忌齋忌。此云踰旣。尾張國山田郡。次次。此云須岐丹波國訶沙郡。並食卜。

謹譯

二十一日。神官が天皇に以下の樣に奏上した。新甞祭のための國郡をうらなひ終へました。齋忌(これはユキと讀む。)は尾張國山田郡。次(これはスキと讀む)は丹波國訶沙郡でございます、と。共に、龜卜で占つた。

上代特殊仮名遣一覧

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此處には、須岐とあり、確かに「岐」は甲音の「き」で、乙音の悠紀の「き」とは異なる。しかし、主基の字の「基」は乙音である。田中初夫氏の「悠紀主基名義考」をみて、詳しく調べたいものである。

口語譯 天照坐伊勢二所󠄃皇太神宮御鎭座次苐記 其の二

故に伊弉諾尊󠄄(いざなぎのみこと)と伊弉册尊󠄄(いざなみのみこと)とは、お喜びになられておつしやられた。「われらの子ども等は澤山ゐるけれども、この御子の樣に靈妙な御子はゐなかつた。この地上に長く留めておいてはならぬ。當然早く天にお送りして天上の事を授けるべきである。」そこで日の神は、日之小宮(わかみや)にお住まひあそばした。

口語譯 天照坐伊勢二所󠄃皇太神宮御鎭座次苐記 其の一 大日孁貴の御誕生

天照坐皇太神一座 伊勢國度會郡宇治鄕五十鈴河上に鎭座する

 

神宮に古より傳はる書物によると、伊弉諾尊が「我は地上を統治する優れた子を産まうとおもふ。」とおつしやられた。そこで左手に銅鏡*1をお持ちになつた。天鏡命の造られた三面の寶鏡の一つである。

 

すると、お生まれになつた神がをられ、この神は大日孁貴(おほひるめのむち)と申し、別名天照大日孁貴と申し上げた。このお子樣は光り輝いてをられ、天地四方を照りとほされた。天地開闢の後、神は足で地をふんで行かれた。御身體の光は神の周りだけを照らし、神が遠ざかると光は消えて行くので、天地は眞暗であつた。そこで、人々を助けるために、日月が空に現れた。名づけて日神、月神とした。

*1:屋代弘賢本と日本書紀とでは白銅鏡

神道辭典

ゆき・すき 悠紀・主基 践祚大嘗祭に定められてゐる二つの祭祀のそれぞれの一方の系列に關する名稱で、ユキ・スキといふ。云々。悠紀の語源的意味は、古くから湯にて清まはる云々、主基は次、濯ぎ淸む、淸忌の御膳、齋城の助、日嗣の嗣などの意であるとしてゐるが、みな祭祀上の意義から連想的に解してゐるだけで、どれが正しい意味であるかよく分からない。ユキのキは上代特殊假名遣表の乙類の假字で書かれ、スキのキはその甲類の假字で書かれてゐる。從つてユキ・スキは同一のキの意味を含むユのキ、スのキの意ではない。現在ではユキについては齋城とする以外に適當な語源的意味を見出し難い。スキについては(一)スの酒、(二)次、(三)灌ぎの三種の意味が考へられるが、(二)(三)は語尾變化のキであるから、(一)の意に解することが出來る。然しユキとの關聯を満足させ得ないと思はれるので、全體的には不明といふ外はないやうである。[文獻]田中初夫「悠紀主基名義考」  (田中初)

神祇辭典には

鈴屋の大人の濯ぎ淸めるの説と鈴木重胤先生の悠紀の次なる説とを兩論併記してゐたり。しかも鈴屋の大人の説を第一に持つて來てゐたり。いづれが定説ともいひがたくなりぬ。

 

神道辭典の田中初夫氏の意見はよりつばらかなり。田中氏は主基の語源について『悠紀主基名義考』てふ論文を書かれてゐたり。次回神道辭典を示さむ。

神道大辭典によれば

スキ 主基 大嘗祭には悠紀主基の國を定めて云々「スキ」の義に就き濯ぎ淸むる意とも、また次の字を充てたるに依りて、悠紀に次ぐの義なりとも解かれてをる。『玉勝間』に、「次は借字にして云々」と見え、鈴木重胤は、「仕奉る物も事も、悠紀と少しも異なるに非ざれば、次の悠紀とも云ふべきを、ただに次とは云ふなり」というてゐるが悠紀は齋淸、主基は淸々しく淸き意であるまいかと思ふ。(佐伯有義)→悠紀

 

上記の如く神道大辭典にあり。佐伯氏は鈴屋の大人の説をとられてゐるらし。鈴木重胤先生は次の意に解して居られたり。

玉賀都萬一の卷の悠紀主基

本居宣長全集第一卷に載る玉賀都萬一の卷 悠紀主基[五]にいふやう、

大嘗の悠紀主基の主基の事、書紀の私記に、師說、齋忌グナリ、といへるより、今に至るまで、人皆此意とのみ心得ためれど、ひがこと也、かの説は、天武紀に齋忌此踰既云、次此須岐云、とあるによれるなれども、齋忌こそ此字の意なれ、次は借字にして、此字の意にはあらず、古へはすべて言だに同じければ、字は、意にはかかはらず、借りて書るに、次を須岐ともいへるから、言の同じきままに、借りて書ならヘるを、そのままに書れたる物也、次の意にあらずといふゆゑは、悠紀と主基とは、何事も二方全く同じさまにして、一事もいささかのおとりまさりあることなければ、次といふべきよしさらになし、天武紀なるは、借り字なること、疑ひなき物をや、主基は、禊の曾岐と同言にして、濯といふことなり、みそきも身濯にて、そそくとすすくと同じきを、共につづめて、曾岐とも須岐ともいへる也、さればこれも、齋忌と同じさまの名にして、濯き淸めたるよしなるぞかし、